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ぐるぐる猿と歌う鳥

ぐるぐる猿と歌う鳥 (講談社ノベルス)ぐるぐる猿と歌う鳥 (講談社ノベルス)
(2010/05/07)
加納 朋子

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相変わらず爽やかで優しくて、でも内容はしっかりずっしり重くて、最後まで安心して読める、とても加納作品らしいお話。
後味が良いのはやっぱりいいですね。

登場人物はほとんどが子どもで、皆それぞれに何かを抱えています。
大人の思惑やらどうしようもない波に翻弄されつつ、それでも元気に明るく生きている。

子どもは、本来、社会の中ではとても立場が弱い。
どんなに泣こうが喚こうが、ダメだと言われれば諦めなければならないし、理不尽な仕打ちにも耐えねばならない。
いいとか悪いとかではなく、子どもというのは、そもそもがそういう存在なのです。
もちろん、子どもは社会の宝です。だけど、吹けば飛ぶほど軽いものでもある。
で、私は、ある意味でそうあるべきだと思っています。
現代日本のような"お子様"至上主義は、社会としては歪んでいるのではないかと。
別に大人にならなくても何でも手に入り、大人のような責任を負わなくてもいいとなれば、みんな子どもがいいに決まっています。
そんな大人になりたがらない子どもが溢れている社会というのは、果たして健全と言えるのか…。
大人と子どもの世界は本来明確に分かれているべきもので、そうだからこそ、子どもは力をためて羽ばたこうとするのです。身勝手な大人を蹴散らすため、自らも早く大人になりたいと熱望するのです。

この物語には、そういう前向きな力を持っている子どもたちがたくさん出てきます。
大人たちに振り回されつつも、自分たちだけのとてもとても大切で重い秘密を共有している。
パックのような子の存在は、有り得ないことのように思えるけれども、形こそ違え、実際たくさんあるのではないかと思います。ちょっと「誰も知らない」という映画を彷彿とさせられました。
でも、やっぱり、これは大人目線のお話でもあるなぁ、とは思ったかな。
最後の「猿から鳥へ」の手紙は、あまり子ども目線とは言えなかったもの。

それはさておき。

加納作品らしく、作中には色んな小さな謎がたくさん出てきます。
それらを主人公たちと一緒に考えるのも楽しみのひとつ。
序盤から提示されている最も大きな謎については、もちろん最後に種明かしがあるわけですが、この物語では、敢えて私はその謎を解こうとせず、作者の術中に自ら飛び込みました。作者の語る言葉に身をゆだね、その優しさにどっぷりと浸かりたかったのです。謎を暴いてやろうと構えるのは、加納作品に限っては、とても無粋なことだと私は思います。

それと、全編通じて「~っちゃ」「~けぇ」っていう方言がとてもいい味を出してます。
東京から来た主人公が「ちゃちゃちゃちゃうるせー」とか言うのもとってもおかしい。
標準語だと、この物語、ここまで輝かない気がします。

お終いまで読んで、

「ああ、やっぱり加納さん大好きだ」

と叫んでしまった私なのでした。

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コッペリア

コッペリア (講談社文庫)コッペリア (講談社文庫)
(2006/07/12)
加納 朋子

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人は何故「人形」に惹かれるのか。
そして「人形」に何を求めているのか。

ここで語られる人形は、所謂アンティークドールではなく、現代作家の手になる「球体関節人形」。
本作では、幻の人形師「如月まゆら」が産み出した至高の作品「まゆらドール」を巡って、様々な人間模様が描かれる。

天地創造の神は、自らに似せて「人間」をつくった、という。
もしそうなら、人形師もまた、自らの手で生殺与奪の権限を持つ存在を産み出した、人形にとっての万能の神と言えるのだろうか。
確かにある意味ではそうだろう。人形が、それを産み出した人形師の手元にあるうちは。
けれど、人形師が、自らつくりだした人形に込めた情念は、決してそれを手にする「ヒト」や、その"型"の元となった人間までは届かない。
そして物言わぬ人形の力を妄信した如月まゆらに悲劇が訪れた…。

そもそも人形とは一体なんだろう。
ヒトガタ…人の形をとらなくてはいけないもの。
「人形」は誕生の瞬間から「完成品」であり、決して成長しない。変化してはいけない。
そしてそれを手にする人間により、様々な役割を演じさせられる運命にある。

昔、親戚に、子どもの出来ない夫婦がいた。
その夫婦は、人間で言えば2歳の子ぐらいの大きさのお人形を、どこに行くにも連れてきていた。
名前を付け、人間の子どもの服を着せ、食事の際には子ども用の椅子にきちんと座らせ、子ども用の食器に食べ物を入れて食べさせるマネまでしていた。
「この子は好き嫌いが多くて困る」「我儘でねぇ」
なんて冗談とも本気ともつかない事を口にしては笑っていた。
今思い返せば、とても切ない。
人形が、夫婦の子どもの身代わりをしていた。それが、あの人形の"役"。

主人公「聖」もまた、自らに"役"を与え、それを演じてきた。
自分をお人形のように可愛がった末に捨てた父親に「あれが自慢の娘だ」と言わせたくないがために、類まれなる美貌をもちながら、決して表舞台に立とうとしない。

一方、その生い立ちゆえ生身の人間と上手く関係が結べず、「まゆらドール」と、「まゆらドール」にそっくりな「聖」に焦がれる青年「了」。
聖は、自分が「コッペリア」であり、一方でスワニルダでもあることに気付き苦しむ。
役を演じることで楽になる人間と、苦しくなる人間がいる。
どちらの心情も理解できてとても心に痛い。

物語は中盤から、それぞれの立場をひっくり返し、実に見事な展開を見せる。
けれど、残念ながら、私は途中でそのからくりに気付いてしまった。
それは決して仕掛けが安易だという意味ではなく、たぶん私が加納朋子を信じていたからだろう。
だって、あの加納朋子だもの(笑)。きっと救いが…みたいな。

人は人であり人形ではない。
役を演じつつも、どんどん変化し続け、成長し続けることができる。

いつかそれぞれの人形は、それぞれが在るべき処へ帰る。
そしてそれぞれの人間も、納まるべきところへ納まる。
エンディングの了の"策略"に思わずにんまり。
やっぱり加納朋子はいいなぁ。

加納朋子といえば、「ななつのこ」や「ささらさや」のように、「ふんわりと温かく、清潔な優しさ」に満ちた作品群を思い起こすが、この作品は、そんな優しい作品とは少し毛色が違う、暗いどろどろとした作品だとよく評価される。
けれど、私は思う。
加納朋子という人は、やっぱり優しさで出来ている。
「コッペリア」も、毒に見える表面をはがすと、中はきちんと優しさで満たされているのだ。

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てるてるあした

てるてるあした (幻冬舎文庫)てるてるあした (幻冬舎文庫)
(2008/02)
加納 朋子

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「ささらさや」の姉妹編。
だけど「ささらさや」を未読でも問題はない。
(もちろん併せて「ささらさや」も読んでおいた方がもっと楽しめるけど)

高校受験が終わり、首尾良く第一志望の高校に入学が決まって、お気楽な春休みを送っていたはずの主人公「照代」に、いきなり降りかかる不幸。突然の転落の人生(彼女にとっては)。
まぁそりゃ、"夜逃げ"をした両親と離ればなれになり、見ず知らずの遠い親戚の家にたった一人で身を寄せるはめになるなんて、ごくフツーの子供が受け止めるには、かなり過酷な状況だろう。
しかも照代はなまじお勉強が出来るだけにプライドがズタズタ。

何もかもに"苛立ち"、すべての人に"意地を張り"、"不遜"な態度をとる。
そんな照代の姿は、なんだか自分の少女時代を垣間見るようでこっ恥ずかしい(笑)。
照代は実はよくわかっているのだ。自分に何も力がないことを。そして魅力もないことを。
誰からも必要とされない自分。みじめな自分。それがわかるだけに"突っ張る"しか方法がなかったのだ。
そしてそんな自分が実は一番嫌い。

今の私ならわかる。
「あーあ。なんてまぁ、自意識過剰なんだろね。」
"遠い親戚"の久代さんも、きっとそう感じていたろう。

けれど、不思議な町「佐々良」で色んな人と関わるうちに、照代は成長してゆく。
「壊れた時計は松ちゃんが修理してくれた。ゾンビ自転車だって、見事に甦った。ガラスのリンゴは今頃金魚鉢になって、真っ赤な金魚を泳がせているかもしれない。」
「私も雑草になってやろうじゃんと思う。肥料なんてもらえなくても、たとえほとんど陽が当たらなくても、葉を茂らせ、根っこを張ってやる。たとえ踏まれたって、すぐに立ち上がってみせる。何度でも。」

そして、いつか照代は気付くのだ。自分の母親もただの愚かな人間であり、聖母マリアじゃないってことに。

きっと今の私みたいに、心が狭くて利己的でコンプレックスの塊で感情的でややこしい人間が、ただずるずると歳ばかり喰い、そして父親になったり母親になったりするのだ。
そうして、言っちゃいけないこととか、すごく適当なこととかをぺろっと言ったりする。あまつさえ、さっさと忘れる。子供の心に五寸釘を打ち込んでおきながら。無責任極まりないとはこのことだ。

そこに気付いた時、照代もまた、子供のままではいられなくなったのだろう。
照代の、若く柔軟な思考が羨ましくもある。

ラストに向かうまでに、何度も号泣させられた。電車の中で読んでいたのに(笑)。
人は皆、多かれ少なかれ何かを抱え、時に優しく、時に傲慢に生きてゆく。
願わくば、私も久代さんのように、背筋を伸ばして生きていきたい。

「てるてるあした。きょうはないても あしたはわらう。」

いい言葉だなぁ。
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ささらさや

ささらさや (幻冬舎文庫)ささらさや (幻冬舎文庫)
(2004/04)
加納 朋子

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「ささら さや」

葉ずれのような、川のせせらぎのような…

その密やかな音がすると、此の場所と彼の場所の狭間から、愛する人がやってくる。
そして、「さや」のピンチを救ってくれてまた突然去ってゆく。

"家族との縁が薄い「さや」。気が弱く、お人好しで他人に簡単に騙される「さや」。自分がいなくなったら、「さや」はどうなってしまうのだろう。"

その想いが、彼の人をこの世に留まらせてしまっていたのだろうか。


けれど、「さや」は、実は激しく鋭い刃を秘めた「鞘」であり、自分の身の内に在るものを優しく育む「莢」でもあった。

その本質に気付いた時、そして「さや」本人も、前を見つめて歩いて行く決意を固めた時、"彼の人"もまた自分の在るべき場所へと戻っていった。

ただひとつの嬉しい"置き土産"を「さや」の元に残して…。


最愛の夫を亡くし、生後間もない子どもを抱え、健気に生きていく「さや」とそれを見守るたくさんの目が切なくもあり、温かくもあり。

だれからも子育てのノウハウを教えてもらえず、育児本に頼らざるを得なかった「さや」に、「そんなにカタチに捉われなくても、臨機応変でいいんだよ」と昔ながらの子育てを伝授する"三婆"たち。
それを素直に受け容れ、時にちゃっかり頼ったりもする「さや」。
けれど"三婆"たちは決して「さや」の世界に踏み込み過ぎず、適度な距離を保ちつつ手と口を出す。
ああ、こういう子育てっていいなと思う。ある意味理想のコミュニティ。
昔ながらのこういう素朴な"お節介コミュニティ"がどこにでも存在すれば、虐待に走る母も、それに苦しむ子も減るんじゃないだろうか。

ある意味「さや」は周りの人に恵まれ過ぎていたとも思える。
だけどそれは、偏に「さや」の人柄によるものだと私は思う。
「さや」が相手を受け容れたからこそ、相手も「さや」を助けたのだ。
私も「さや」のように、本当の意味での柔軟な人になりたい。
柔軟な人は、一見細くて弱そうに見えるが、しなやかでやわらかいから、ちょっとやそっとでは折れないのだ。

登場人物がみんな個性的で楽しく、題材としては"厳しい"世界のはずが、読後感はどこまでも優しく清々しい。
いつもの「日常ミステリー」も楽しめるし、やっぱり加納朋子はいいなぁ、と強烈に思わせてくれた一冊。

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道楽猫

Author:道楽猫
日々子育てに仕事に大忙し。
でも家事は忘れても(・_・)読書は忘れない。
そんな道楽猫が、日々の暮らしの隙間をぬって読んできた本の感想を留めたくて開設したブログです。

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