スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

幸福な食卓

幸福な食卓 (講談社文庫)幸福な食卓 (講談社文庫)
(2007/06/15)
瀬尾 まいこ

商品詳細を見る

なんともキモチワルイお話であった。

もちろん、主題は家族の再生なんだろうけども、全然清々しくなく、すっきりしない。
なまあたたかい風がずっと顔に当たっているような不快感。
そう、なんだかエアコン暖房のような、つくりもので、無理矢理なイメージ。
もわんとあったかいけど、窒息しそうでちっともぬくぬくしない。

そいでもってここの家族の食卓が、タイトルにそぐわず、ちっとも幸福な気がしないのはどうしたことだろう。
そうだな。割れちゃったお皿をセメダインかなんかでくっつけて、接着剤のニオイが明らかにしてるんだけど、みんなその事には触れずにニコニコとガマンしながらお料理を平らげる、みたいな。
もしかして、これって、実は家族という形をとったお人形が、そろって食卓を囲んでいるというオカルト話なのだろうかと思ったほどだ。

ああでも。
"家族"って、ひょっとしたら元々そういうものなのかもしれない。

「百鬼夜行抄」という漫画の中に、こんな印象的なセリフが出てくる。
親子だと思っていた男女が実はそうではなかったというくだりで、主人公のお婆ちゃんが
「そうじゃないかと思っていた。親子ってもんは、もう少し遠慮があるものよ。」
とつぶやくのだ。
読んだ当時は、ちょっと腑に落ちない気がしたもんだけど、よくよく考えれば確かにそうなのだ。
親子だから、家族だからこそ言えない、触れられないことがある。
暗黙の了解がまかりとおる狭い狭い領域。

そう考えれば、こういう形の思いやりは、理解できる。
お互いを思い合うが故に、父親は父親をやめ、母親は家を出る。
それもまたひとつの家族の在り方なのだろう。
けどなぁ。
理解できる、ということと、賛同する、ということは別問題であり、私はこういうキモチワルイ解決方法は好きではない。

別に体育会系のノリで
「みんな、もっと腹を割って話そうぜ!」
なんて能天気なことを言うわけではないけれど、何故、もっと単純に父親は母親を抱き締めず、母親は娘を抱き締めないのだろう。どうしてこんなにお互いの距離が開いているのだろう。

うちの夫婦喧嘩は時にとてもヒサンで
夫が星一徹のように卓袱台をひっくり返し、私は醤油差しをぶん投げて応戦し、かべ一面が醤油とカレーまみれになってしまったことさえある。それで
「あんたなんかとはもう一緒に暮らせない!別れてやる」
とお互い喚き倒すのだが、小一時間もすれば、そんなことも忘れて一緒にテレビを観て笑っていたりする。

子どもたちからすればとってもハタ迷惑な両親だろうが、たぶん夫は自殺しないだろうし私は家出をすることもない。
もちろんべたべたくっつくだけが良いわけではない。
何を幸福と感じるかも、人それぞれである。
けれど、ムスメの最大の悲しみに、あんな形でしか寄り添えない父親と母親は、とてももどかしく腹立たしい。
あの家族はやっぱり幸せではないと私は思う。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
↑朝食には目玉焼きかオムレツがほしい。ふふふ。
スポンサーサイト

テーマ 書評
ジャンル | 小説・文学

家守綺譚

家守綺譚 (新潮文庫)家守綺譚 (新潮文庫)
(2006/09)
梨木 香歩

商品詳細を見る

しんとした、静謐な世界。

水墨画のような風景の中、風がさわさわと庭を通り抜け、池でとぷんと小さく水が跳ねて波紋が拡がる。
そこではサルスベリの木が人に懸想をし、河童がしばし逗留し、もちろん狸は人を化かす。
そして座敷の掛け軸の中から、湖で行方不明になったはずの友人が、何気にボートを漕いでやってくる。
一見すると怪談かとも思われるような物語が、ここではごく当たり前の情景として静かに語られるのだ。

昔、少し生け花を習っていたことがある。
そこの先生がおっしゃられていたのだが、植物にはどうも
「手を嫌う」
ということがあるらしい。人参などは、蒔き手によっては全く芽を出さないそうな。
嘘か本当かわからないが、相性、というものは、確かに植物と人の間にもあるのだろう。
そしてそれはもちろん、動物と人の間にも存在する。
ゴローが何を思って綿貫の家に居つくことにしたのか、それは常人には知り得ぬことだけれど、ゴローはたいへん偉大な犬であるので、綿貫の中にある無防備なまでの率直さ、柔軟さを直感で嗅ぎ取ったのだろう。

実際、綿貫は大した人物だと思う。
諸々の不思議を不思議のまま、「そんなものか」と素直に受け容れる。
そしてそのような柔軟さを保ちながらも、安逸とした生活への心惹かれるいざないを良しとせず
「こういう生活は、わたしの精神を養わない」
と言い切る凛とした潔さも同時に持っている。
確かに彼は立派に「家守」なのだ。

精神の高みを目指しつつも、 少欲知足の生活を守る。
欲しいものは何でも望めば簡単に手に入る、便利な生活に慣れた今の私たち日本人が
少し昔に置いてきてしまった"慎ましさ"に、ここで出会う。

すっと喉を過ぎ、いつのまにか身体中に染み渡る
清浄な水のような、そんなしずかな文章に心満たされた。
そのすべてに圧倒されつつ、身を任せるのがこの物語を読む幸せ。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
↑実はうちにも河童がいますよ(・_・)

テーマ 書評
ジャンル | 小説・文学

ジェニィ

ジェニィ (新潮文庫)ジェニィ (新潮文庫)
(1979/07)
ポール・ギャリコ、Paul Gallico 他

商品詳細を見る

自他共に認める遅読の私でも、年月を経るにつれ所蔵本は溜まる一方である。
そのうち整理しなきゃと思っているのだが、どんなにたくさんの本を手放すことになっても、これだけは絶対に手元に置いておきたいと思っている本が数冊ある。
この「ジェニィ」もそのうちの一冊に加わった。

私はジェニィが愛しくて愛しくてならない。できればずっと胸に抱いて、死んだらこの本と一緒に葬ってほしいぐらい。

猫好きの少年ピーターが交通事故に遭い、気が付いたら猫の姿になっていたところから物語は始まる。
家から放り出され、慣れない猫の身でなにがなんだかわからないうちにあちこち彷徨い、果てにはボス猫にやられて瀕死の状態で横たわっていたピーターを救ったのが、一匹の雌猫「ジェニィ」だった。
ジェニィは、「ぼくは実は人間なんだ」というピーターの言葉に驚きながらも、何も知らないピーターに猫の掟を叩き込む。
ねずみの捕え方。正しい身づくろいの方法。そして何かあったら身づくろい、何はなくとも身づくろいという猫のたしなみ。ほおヒゲが教えてくれる正しい方向。
作者は、実はピーターのように猫だった時代があるのじゃないかと疑うほどに猫の描写がリアルで驚かされる。
猫好きならもれなくうっとりすること間違いなし。

その後の二匹の心躍る冒険譚は、終始ピーターの視点で進んでゆく。
ジェニィは、ピーターにとってもちろんかけがえのない唯一の存在ではあったが、家庭の愛に飢えていた彼には、それはどちらかと言えば惜しみない愛を与えてくれる母であり、姉という対象だったように思う。
しかしジェニィにとってのピーターは…。

これは私の持論なのだが、男はいくつになっても、いや死ぬまで子どもだけれど、女は最初から女で死ぬまで女なのだ。
ジェニィを「理想の女性像」と評する男性の声は多いけれど、ジェニィの献身と寛大さを見て単純にそう思っているのだとしたら、それは随分浅墓な考えだと私は思う。

ピーターを待っていたジェニィの心はどうだったのか。
ただ穏やかに、愛する男の帰還を待っていたと思うのか。

手酷い裏切りに、傷つかないものはいない。
相手を愛していればいるほど、その傷は深く、癒されがたいものとなる。
ジェニイは別に聖母でもなんでもなく、ただの女である。
強い愛情は、時に憎悪をも呼び込む。
私は、ジェニィは、女として、ピーターが許せなかったのだと思う。
愛情と激しい憎しみの念に引き裂かれたジェニィの気持ちを思うと、胸が詰まる思いがする。

それだけに、あのエピローグを、"大団円"といい、大人のファンタジーでしたで片付けてしまうのは、あまりに悲しく痛ましい。
自分が止むにやまれぬ激情の余り取ってしまった行動の結果に、ジェニィはきっと死ぬまで後悔し続けたことだろう。

一方、何も知らないまま、これからを生きてゆくピーター。
けれど、ピーターの心のどこか奥深くには、きっとずっとジェニィが住んでいるに違いない。そう信じたい。


日本で出版されたのは、もう随分前なので、訳文が少々古臭いのが唯一残念なところ。
出来れば、新訳で、再度出版していただけたなら、そしてもっと色んな人に、こんなにも素晴らしい猫がいることを知ってもらえたら、と心から願っている。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
↑猫になってみたい~という人は一票を。

テーマ 書評
ジャンル | 小説・文学

エンジェル・エンジェル・エンジェル

エンジェル・エンジェル・エンジェル (新潮文庫)エンジェル・エンジェル・エンジェル (新潮文庫)
(2004/02)
梨木 香歩

商品詳細を見る

こんなCMを見たことがある。

お母さんが自分の若い頃の写真を持ってきて
「ほら、これお母さん。昔はこんなに細かったのよ~」
とドヤ顔で我が子に自慢する。
すると子どもはこう吐き捨てるのだ。
「え?お母さんて若い頃あったん?」
それを聞いたお母さん大ショック、みたいな。

そう、もちろん誰にだって若かった頃はある。
シワシワのお婆ちゃんだってある日突然しわくちゃになったわけではなく、ほやほやした赤ん坊の頃がちゃんとあったし、花も恥じらう娘盛りだってあったのだ。
私だって昔から今みたいなヒデヨシ@アタゴオル体型じゃなく、若い頃は…げふんげふん。いやそれはどうでもいい。

家の物置から持ち出した古いサイドテーブルと熱帯魚の水槽から出るモーター音が、ばあちゃんを遠い昔に引き戻す。
ある日突然、自分を「さわちゃんって呼んで」と少女のような顔で孫に告げる。
それは、医学的に見れば単なる痴呆の症状であったかもしれない。

けれど。

思えば私は生まれてからこれまで、色んな場所に想いを残してきた。
母と夢中になってヨモギを摘んだ田舎の畦道。楽しくて楽しくて、帰りたくないもっと遊んでいたいと思ったあの場所。
高校1年の頃、父親の転勤で遠く離れた場所に引っ越すことになり、当時の親友と泣きながら別れたフェリー乗り場。
大好きで夢中になったロックバンドの解散ライブ会場。
もう会えないのなら、ここで死んでもいいと思った。

思い出の場所には、当時の自分が、その頃の姿のまま、今も佇んでいる気がしてならない。

コウちゃんの引っ張り出してきた古いサイドテーブルには、ばあちゃんの強い強い想いが残っていた。
そこに留まっていた想いが、ばあちゃんの魂を、遠い過去に引き戻したのではないかと私は思う。

過去の思い出は、美しいものばかりではない。
あの時ああすればこうしていれば…。
そんな悔恨の念にかられるばかりの思い出も、きっとだれにでもあるだろう。

ばあちゃんは、赦されたかった。謝りたかった。
過去の自分の過ちを。
それがきっと今生の最後の悔いだったのだろう。
天使のようだと言われたばあちゃんは、けれど自分は悪魔に魂を捧げてしまったのだと長いこと苦しんでいた。

間違わない存在などない、と私は思う。
人であれ何であれ。みんな生きるのは初めてで、一瞬先には経験がないから一歩一歩手探りで進むしかない。
だから間違う。傷つく。傷つけてしまう。

誰もが誰かを赦したいと思っている。
そして赦されたいと願っている。

人も動物も、恐れ多くも神様さえも、過ちを赦されたいと希っているのではないかと

読み終えて、はらはらとこぼれ落ちる涙をぬぐうこともなく、ぼんやりと母の写真を眺めていた。


にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
↑だれか私の知恵を啓いておくれ。

テーマ 書評
ジャンル | 小説・文学

アメーバなう
オススメ
プロフィール

道楽猫

Author:道楽猫
日々子育てに仕事に大忙し。
でも家事は忘れても(・_・)読書は忘れない。
そんな道楽猫が、日々の暮らしの隙間をぬって読んできた本の感想を留めたくて開設したブログです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム
メールはこちら>>

*上(別窓)のメールフォームが表示・動作しない場合はこちら

検索フォーム
今読んでる本
dorakunekoの今読んでる本
リンク
つぶやき
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

BK1
書評の鉄人
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。